愛増す

シャニマスに関する雑文

シーズG.R.A.D.編 雑感

  • まさかのルカ本人の出番がなかった…次のイベストで大暴れするのか

◆にちか編

・にちかは、あの人は今番組でかつての有名人が「生きてる実感がある。今幸せです」と語っているのを見て「死んでるじゃん」と言い放つ。それは自分の状況も含めての感情なのだろうが。

・ラスト「そうな の」は「そうなの?」の「?」が取れたタイトルで、さらにシャニPがにちかの靴を脱がせた上で彼女のための靴を改めてプレゼントするという、努と八雲なみとの対比になっているという構成でシンプルに捉えて少し感動したのだが、その後再びあの人は今番組を流しつつ、ルカ母の会話シーンを挿入し、

ルカ母「(今は)幸せですから」

にちか「(普通の日常を送ることを)ありえないからそういうの」

…見せ方がえぐいよシナリオ班。

というか実は「そうな(る)の」なのか?

 

・「幸せ」について

にちかはかつての有名芸能人が皆から忘れられ、一般人と変わらぬごくありふれた生活をしている姿を見て「死んでるじゃん」と感じた。そして彼女にとっての原点である八雲なみも実は「夢を諦めた人」であり、今はもう「ありえない、死んでいる」人である。にちか自身がその状態になる事を恐れている。

美琴も夢を諦めた人は普通の人になるのではなく、何もない人になると語る。そこにはもちろん幸せも無いのだろう。

ノログでは努がルカに「あの人は今不幸せなのか?」と尋ねると、ルカは逆説的に自分達は不幸だと言いながらも母の笑顔を思い出して、不幸だと言い切る事はしなかった。

つまりシーズの二人からすれば八雲なみは「何もない」し「死んでる」人であり幸せではない。しかしルカだけは憎き努の前だろうと笑顔の母を不幸だと評する事はなかった。ルカがそう思っているのかはわからない。なみ本人も「幸せだ」とは言っていたが本人が本当にそう思っているかはわからない。

夢を持つ事、追い求める事、諦めない事、諦める事、幸せとは何かをシーズシナリオでは特に描こうとしてきている、いわばテーマなわけで。一概に何が「幸せ」なのか定義する事は難しいが、なみのような生き方を「幸せではない」とした彼女達を描いたその事に対し、では何が幸せだと描くのか、そこに注目したい。

 

・ラストで何故かPの下に八雲なみに関する電話がかかってきたのは何故なのか。あの人は今番組スタッフがルカ母に出演交渉をしている様子から関係者である努がいる283プロに連絡をしただけか?

 

◆美琴

美琴北海道編は感動的なエピソードがあるわけでもなく虚無で、体調がよくなることはなく、実家ですらもはや自分の帰る場所ではないという確認をしただけという。やっぱりステージの上が自分の居場所であるという再確認ができて、そこで生きていこうと新たに覚悟しなおしたといえば聞こえはいいが、むしろ彼女はもう取り返しのつかないところに踏み込んだとも言えないだろうか。

体調不良もおそらく心因性のモノであり、彼女はステージのためのレッスンに打ち込むことで、自分の置かれている現実と、その事に対して生まれるネガティブな感情から目を逸らしてきた。ちょうどにちかがレッスンで自分を痛めつけていたように。今回の居場所の再確認によって、それが明確に変わったのかってのは、まだちょっとわからなかった。撮影で自ら考えたポーズを取るようになったとか前向きな変化があったと描かれていたけど。覚悟が決まりすぎてさらなる現実逃避というか、もう現実から完全に目を背けるようになったとも言えるのではないか。美琴が最終的にどうなれば満足するのか結局わからないままな以上、望んだ自分になれないままステージに立てなくなった時、美琴はその先を生きていく事はできるのか?

 

・両親について

14歳で単身上京した一人娘と少なくとも父親はそれ以来会ってない様子なのがひっかかる。家族との向き合い方は千差万別だし、北海道と東京は気軽に行ける距離ではないのもわかるが、とは言え10年も放っておく事は普通の家庭なのだろうか。

すごい裕福な家だから美琴が何をしようがどうなろうが帰ってきたら受け入れることができる環境なのかなとなんとなく感じた。だから放任主義的になっているのだと。